有限会社E.N.N.代表 小津誠一さん【前編】

外の目と内の目。自身の経験から金沢のまちづくりに取り組む。


 建築家であり、有限会社E.N.N.の代表である小津誠一さん。その活動内容は幅広く、建築設計チーム「studio KOZ.」「金沢R不動産」を率い、さらに飲食店「嗜季」「a.k.a.」などを運営し、個性的な空間の発見・創造・実践に取り組んでいる。

 その小津さんもメンバーの一人であるNPO法人「趣都金澤」が発行し、金沢R不動産が制作した、観光ガイドには載らないリアルな情報をまとめたマップがある。その名も「KANAZAWA TRIAL STAY MAP」。このマップ、金沢への移住を考える人のための「試し住み」用に作られたもの。食材の買い出しや子連れのための施設、仕事ができるカフェ、地元のキーパーソンも紹介しているなど、金沢在住のスタッフが足で得た情報が掲載されている。地元民が通うおいしいお店は、観光でも役立つ嬉しい情報だ。

 実は小津さん自身、金沢へUターン移住したおひとり。現在は金沢に軸足を置きながら、東京と二拠点を持っていることが心地いいと話す。金沢に帰郷した理由とは? 東京暮らしを経て見えてきた金沢とは? まずはドラマチックな前編からご紹介しましょう。



古い街を逃れ、新しい文化を求めて東京へ。建築を学ぶ大学時代。

 

 高校を卒業すると、小津さんはすぐに東京へ出た。とにかく金沢から脱出するのが目的だ。地方ならどこにでもあることだけど、噂や人の目でじわじわ型に嵌められていくような息苦しさが、そのころはすごく嫌だったという。新しい文化を面白がる東京的な嗜好性が強かったせいもあるだろうか。当時、金沢には輸入レコード屋が数件だけで、しかもレコードは高校生が気軽に買える値段じゃない。ビックリハウスや宝島といったカルチャーマガジンに影響を受けながら、手の届かないもどかしさ。デザイナーやアパレルといったカタカナ職業が出てきた時代。いつからか漠然と志していた建築は、こういう輝かしいものとつながっている世界なんだろうと思っていた。なのにうかつにも、美大に建築学科があることを知ったのは、高校卒業の間際。浪人覚悟で上京し、デッサンを猛勉強して、1年後に武蔵野美術大学造形学部建築学科に入学した。

 そのころの学園祭は企業のスポンサーがつくことがよくあって、小津さんも学科を超えて集まった有志のメンバーと、大々的なイベントを開いたという。模擬店と称して、学校の敷地内に巨大な仮設建築を自分たちで建てたりもした。建築とイベントと、美大のへなちょこサッカー部に所属しながらの4年間。ストレートな建築よりも、場づくりになる、メディアになる建築をやりたいなと思い始めていた。



身の振り方に悩みながら、建築でやっていくベースづくりに飛び込む。

 

 大学を終えても設計事務所には入らず、広告代理店の契約社員として週3日ほど働くことで、生活はそれなりにできていた。残りの日は建築のワークショップに参加したり海外旅行に行ったり。やっぱり留学かなと、英語の勉強をして機会を探っていたらしい。そんな曖昧な日々の中で、建築関連の現場に行くと、実は建築のことをよくわかっていないなと実感する。デザインの話はできても現場の話はまったくできない。「お前は何屋なんだ?」と言われ、「何屋でもねぇよ」と最初は粋がっていたけれど、このままじゃヤバイんじゃないか。建築をベースにする軸足を作らなくちゃいけない。卒業から1年半ほど経ったころだ。

 時代はバブル期。日本では、世界中の名だたる建築家のプロジェクトがあちらこちらで持ち上がっていた。小津さんがあこがれた建築事務所も、ちょうどプロジェクトのために日本事務所を立ち上げると聞く。まずはそれを足掛かりにと、設計事務所の門を叩いた。代理店の契約社員を続けながら、設計事務所にも籍を置く二重生活。代理店で5時まで働いたあと、そのまま設計事務所で徹夜し、朝家に帰って着替え、また代理店へ。設計事務所に詰めて1か月間家に帰れないこともあった。アトリエ系の建築事務所では、弟子入りして修行するがごとくの状況が当たり前だったころだ。体力も気力も十分で、3年間がむしゃらに立ち向かった。

 プロジェクトの設計期間が終わると共に、日本事務所のトップが設立した事務所に移る。新しい事務所が始まって1か月後、2、3あった巨大プロジェクトが次々にペンディングになり、中止になっていった。それでも頻繁にあった設計コンペティションに応募し、入選率は7割超え。コンペに勝てば、渾身の建築が実現し、一躍注目の建築事務所になるはずだ。しかし優秀賞に選ばれるものの最優秀賞にはなれず、結局仕事にはつながらない。事務所はかろうじて賞金で賄っていた。バブルという名前もまだつかないころ。何が起こっているのかもわからず、なんか最近厳しいよね、なんて話していた。



200円と200万円。行き詰った状況が動き出す。

 

 いよいよ事務所の状況は厳しさを増し、給料が6か月止まったことも。相変わらず事務所の仕事はコンペなどで忙しく、毎日終電。アパート暮らしの小津さんには、まさに死活問題だ。事務所のために伝手を頼りに仕事を探しながら、夜中にバイトをして何とか食いつなぐ。さすがに行き詰り、もう暮らせない―。 とはいいながら(いや、だからこそ)、毎週末クラブに通っていたというから驚きだ。

 ある朝起きると、ポケットにあるのは200円。貯金もないし、それ以上のお金はどこにもない。タバコも切れている。とりあえず事務所に行くか、と駅へ行ったら定期券も昨日まで。タバコを買うか、事務所に行くべきか、いいやタバコ買っちゃえ。

「すいません、定期券が切れちゃって残念ながら行けません。溜まっているお給料のいくらかでも払えるようになったら、連絡ください」。

家に帰ってそう事務所に電話し、その日は久々にぐっすり眠った。

 次の日電話で起こされた。寝ぼけ眼でとった受話器の向こうで友人が笑っている。

「お前もう病気だな」

「なんで?」

「お前いま、自分ちの電話を、はいX建築事務所ですってとったぞ」

「こりゃまずいな(笑)」

そんな風に知人から1日に何本か電話がかかってきた。「ついにストライキ始めたんだって?」「お前、ついに辞めるの?」そう言いながら有難いことに、休んでいる間にもらった電話のほとんどが仕事の依頼だった。1か月近く休んでいる間に、気がつけば200万円近いバイト代を稼いでいた。おかしな状況だけど、ますますクラブにも行ける。



勢いで事務所を辞めることになったのだが。。。

 

「小津君、やっとお金が集まりそうだから、一度来てよ」。ボスから電話をもらい、事務所へ向かう。休んでいた間に、考えたことがあった。自分にはいざとなれば声をかけてくれる人たちがいるが、設計の実力はまだ足りない。でもクライアントとの交渉ごとは、ボスよりも上手くできる自信がある。事務所のスタッフはみな後輩。自分がいなければ回らないだろう。「ボスの苦手な部分を自分が担い、事務所のパートナーとしてやっていきたい。」ランチを食べながら、そう提案した。ボスの答えは意外にも、「いいよ、辞めたいなら辞めて」。一言も去りたいとは言っていないが、売り言葉に買い言葉。「わかりました、辞めます」と口をついた。

 それから数日後、興奮気味のボスからの電話。この前の話はまるでなかったかのように、「事務所の全権を小津君に任せたい」と言う。はぁー?言ってる意味がよくわからない。「ちょっと冷静になってもう一度電話ください」。1時間後、本当に電話があり、聞けばボスに大学教授の話が舞い込み、自分は京都に行くから東京の事務所は任せたい、ということだった。もしかしたら、大きな転機になるかもしれない、そう思った。するとまた次の日、「昨日の話はナシで、小津君が京都に行ってくれないか」。



学生と向き合った京都時代。やむに已まれず独立し、再び東京へ。

 

 当てがあって事務所を辞めたわけでもないし、京都っていいかもしれない、と小津さんは考えた。「わかりました、行きます」。1995年、阪神淡路大震災の直後のことだった。奇しくも麻原彰晃逮捕に向けて、西日本を中心に包囲網が貼られている中を、怪しい荷物をたくさん積んで、一人でトラックを運転し京都に向かった。設計事務所にいたため、筒形の図面ケースをたくさん載せている。「この筒は何だー!」と、何度も検問にあいながらの道中だったらしい。

 大学勤務の京都時代が始まった。週に2日程度ボスが京都に通い、小津さんが京都に住んでスタジオ運営を一手に担う。そのうち自分なりにカリキュラムを組んだり、長期の研究に取り組みたいと思うようになったが、それは叶わないと知る。自身の設計事務所「studio KOZ.」を立ち上げたのは、このころだ。縁も伝手もない京都で、仕事を探すためにできることといえば、飲み歩くこと。その成果で初期の仕事は呑み屋やバー、カフェなど、飲食店が中心だったという。仕事は細々とだったが、大学の優秀な教え子たちが給料度外視で働きたいと言ってくれるなど、嬉しいこともあった。大学での小津さんの日々が、いかに真摯で充実していたかが伺える。そろそろ仕事をしに東京に戻ろう、そう決断したのは京都暮らしも7年目を終えた、2001年のことだった。

後編へつづく。


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小津誠一さんプロフィール

有限会社E.N.N.代表/株式会社嗜季代表

1966年石川県金沢市生まれ。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。

東京の設計事務所勤務でバブル期とバブル後を経験の後、京都の大学で建築教育に携わる。1998年京都にて「studio KOZ.」を設立。京都と東京で建築やインテリアの設計を行う。

2003年金沢にて(有)E.N.N.を設立。廃墟ビルの再生と同時に、実験性に溢れた創作和食店「a.k.a.」を開業。これを機に東京、金沢の二拠点活動を開始。2007年、初の地方版R不動産「金沢R不動産」をスタートする。

2012年より、東京からUターン移住して金沢を本拠地として活動。(有)E.N.N.にて建築・不動産事業、(株)嗜季にて飲食店事業を行うほか、八百萬のヒト・モノ・コトが集う開かれた町家「八百萬本舗」や一棟貸しの町家の宿「橋端家」の運営など、活動は多岐に渡る。

東京とも京都とも違う視点から、金沢の文化的な街づくりにも参加。移住や二拠点を考える人のための「試住マップ」制作など、リアルな発想で街の活性化を促している。

2016年より、The Share Hotels「HATCHi」にて、営業を休止していた「a.k.a.」を復活させ、新たな飲食空間と地域拠点づくりに取り組んでいる。


http://www.enn.co.jp/

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写真:高野尚人 文:甲嶋じゅん子